| あおもり通信 > 文学・歴史 > 第2回 |
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![]() 昭和11年(1936)、弘前市で警察官の父寺山八郎とはつの間に生まれる。三沢市など何度か引越しを繰り返し、中学2年から高校卒業までを青森市で過ごす。早稲田大学で学び、昭和42年「天井桟敷」を結成。昭和58年に急性腹膜炎で他界するまで短歌・俳句・詩・演劇・映画・写真・エッセイなど多彩なジャンルでその才能を発揮し、前衛的な表現で多くの人に衝撃を与えた昭和のカリスマ。1997年三沢市に開館した「寺山修司記念館」に、1万2千点の遺品が展示保存されている。 ![]() 寺山修司は、自ら「職業は寺山修司」と言ったほどに才能あふれる表現者でした。この「寺山修司」が形成されていったのは、中学・高校と暮らした青森市での日々だったようです。かつての映画館「歌舞伎座」(現はくちょう会館)での刺激的な日々や、野脇中学校で出会い“一卵性双生児”とまで呼ばれた京武久美など友人達との、学校の部活にとどまらない積極的な制作活動。 しかし、寺山芸術に大きな影響を与えたのは、小学校4年間の三沢生活にあったようです。 1945年、青森空襲の後に父の病戦死を伝えられると、母はつと小学生だった寺山は、父の実家である三沢市古間木(ふるまぎ)の「寺山食堂」の二階に間借りします(現在は道路)。ベースキャンプで仕事を始めた母は次第に身なりも行動も派手になっていき、ついには「寺山食堂」を出ることになり、近くに新居を構えます。しかし母は夜遅くまで帰らないことが多く、寺山は母の愛情に満たされない日々を送ります。 また、自伝的映画『田園に死す』で欠かせない場面になっている「墓地」と「かくれんぼ」の組み合わせも、この時期の経験からのようです。墓地へ足を踏み入れることさえ嫌がるほど臆病で怖がりだった寺山を、いたずらっ子たちはわざと墓地に誘い、かくれんぼをして遊んでいたのだそうです。 子ども心に刻まれたこれらの思い出が後に芸術として大成し、東京での寺山の活動は、劇団「天井桟敷」の主宰をはじめ、映画、執筆活動などめざましいものでした。記念館の設立を構想しはじめたとき、寺山の遺品をまもっていた母はつは「記念館は東京に」と言って譲りませんでした。それにもかかわらず、記念館を東京ではなく寺山のふるさとであり寺山芸術の原点となった三沢に建てることになったのは、元夫人であり、長らく寺山と活動を共にしてきた「天井桟敷」看板女優の九條映子(今日子)の意志によるところが大きいようです。 現在寺山の従兄弟が館長を務める「寺山修司記念館」は、寺山と親しかった粟津潔氏のデザインをもとに建設、1997年に開館しました。この記念館の展示室は「引き出し」がポイントです。ふるさと三沢市にさまざまな形で残されている寺山修司の足跡を、「引き出し」を開け、探してみてください。 寺山修司記念館
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